流れと淀み
ジェフリー・スコット著、坂牛卓、辺見浩久監訳『人間主義の建築:趣味の歴史をめぐる––考察』鹿島出版会 2011 (1914)
エイドリアン・フォーティー著、坂牛卓、逸見浩久監訳『言葉と建築––語彙体系としてのモダニズム』鹿島出版会 2006 (2000)
エミール・カウフマン著、白井秀和訳『ルドゥーからル・コルビュジエまで–自律的建築の起源と展開』中央公論美術出版 1992 (1933)
伊藤亜紗『ヴァレリー芸術と身体の哲学』講談社学術文庫2021
カンタン・メイヤスー 『有限性の後で–偶然性の必然性についての試論』 人文書院2016 (2006)
坂牛卓『建築の規則』 ナカニシヤ出版2008
坂牛卓『建築の条件』リクシル出版2017
坂牛卓『建築の設計力』彰国社2020
坂牛卓
ここ4年間の実作:「anyplace.work Fujiyoshida」(2018)「Fujihimuro」(2019)、「子供の家」(2019)、そして「坂牛邸」(2019)、「地域総合子ども家庭支援センター」(2021)で意識していたことは「流れと淀み」ということについてである。
今から14年前の拙著『建築の規則』(2008)の中で建築は物と間でできていると書いたが、近著『建築の設計力』(2020)で建築は「物」と「間」と「流れ」でできていると修正した。流れに思いが至る経緯を以下に記してみたい。
自律的思考から他律的思考へ
話は少し遠回りになるが、拙訳を二冊紹介したい。一冊目はジェフリー・スコット『人間主義の建築』 。ネオゴシック全盛期のイギリスでゴシック建築を称揚する論理の誤謬を指摘して、ルネサンス建築の優位を主張した本だ。著者はロマン主義、力学、生物学などゴシック称揚論理を建築に外在する論理として否定し、量塊、空間、線など、建築に内在する概念を重視した。
二冊目はエイドリアン・フォーティー『言葉と建築』 だ。建築に内在し、モダニズムを構成する概念(機能、空間、形など)と、建築に外在し、モダニズム後期あるいはポストモダニズムを構成する概念(記憶、歴史、使用者)の出自を明らかにした。
二冊の本で注目したいのは建築を説明する概念は建築に内在するものと外在するものがあるということだ。そして内在する概念は建築の自律性を目指してモダニズムの背骨となった。
エミール・カウフマンの『ルドゥーからル・コルビュジエまで−−自律的建築の起源と展開』 はモダニズムの自律性について、ルドゥーを対象に説明する。カウフマンはカントの自律精神がルドゥーを支え、その自律性はモダニズム(ル・コルビュジエ)に受け継がれたと説明した。
こうして生まれた自律的モダニズム建築はポストモダニズム時代に批判され、建築に外在する論理が前景化した。 そうした他律思考は建築やアートの世界の外にも散見される。アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートは民主的に弱い意思を束ねる水平的思考を、強い統率的な垂直的思考に対峙させる。国家、地域を越えて人々が横に(水平に)つながり帝国(垂直的)に対抗することを促す。一見かけ離れて見える、建築やアートの他律思考と政治の水平思考には多様な考え方を受け入れるてという点において共通する部分がある。一方単独の強い思想に引っ張られる垂直思考は内在する論理でシステムを機能させようとする自律的思考に重なる。垂直から水平へ、自律から他律へと時代は変容してきているが、水平他律は現代において盤石なものだろうか。
他律的思考から自律的思考へ
例えば伊藤亜紗『ヴァレリー芸術と身体の哲学』 で、伊藤は現代の価値観を民主的でオープンな「水平性」としつつ、一方で水平性の過剰な尊重が垂直方向へ突出する私たちの可能性を抑圧してはいないかと警鐘を鳴らしている。
哲学においてはカンタン・メイヤスーが『有限性の後で−−偶然性の必然性についての試論』 において、物自体を認識不可能とするカント以降の哲学を批判。今まで物を物に纏わる外部的な思考や影響などからその意味や価値を考えていたのに対して、物そのものに内在する意味や価値から再考しようとした。
自律的思考と他律的思考の中庸を解像度を上げてみる

図 坂牛卓 坂牛邸 東京 2019
上記伊藤、メイヤスーの哲学は現代の他律的言説を相対化して自律性再考のベクトルをもっている。そんな状況の中で私は自律と他律の中庸の解像度を上げながら双方に利する概念、つまり他律性を引き込める自律性装置を抽出しようとしてきた。そして試行錯誤の末行き着いたのは「流れと淀み」だった。それは建築に内在する論理を探究した拙著『建築の規則』 と建築に外在する論理を分析した『建築の条件』 を束ねた『建築の設計力』 を書きながら考えたことだ。
「流れと淀み」は建築の自律的要素として形態操作を牽引する。同時に建築に外在する要素としての光、風、音、自然、人、物、動物などの動きに導かれる。つまり建築の自律性と他律性を架橋し得る有効な概念装置である。前作坂牛邸(運動と風景)では建物の中心に上下する階段を織り込み。住人の運動(流れ)を前景化した。またこの流れは神楽坂という町の坂の侵入とも読める。そしてそんな流れは建物内では流れるだけではなく流れから外れた淀んだスペースにも連続する。
Fujimi Hutは前作からは程遠い、自然の中にあるが、コンセプトは変わらない。緩やかに南に下る斜面に合わせて室内には85センチの段差が中央にある。壁面沿いには±0のレベルに連続する床・ベッド・ベンチ・テーブル・キッチンの流れと、+1500のレベルにあるベッド・棚・ベッドの形態的な連続面を作り、そこで物やアクティビティの移動(流れ)が生まれるように計画した。前作同様、そうした流れが建物を貫通していくような開放性はない。むしろ流れはこの建物の中で淀み停滞している。流れ→外部とのつながり→他律と、淀み→閉じる→自律という二つの考えの中庸を標榜した結果である。
『新建築住宅特集』2023年1月号所収