修士発表会

2月 13, 2026

坂牛 卓

山名さんが理工の修士設計講評会や建築教育に対する意見をFBに記していた。講評会がイメージや世界観に流される傾向や、設計のproject性(設計の社会への投企)が希薄なことを批判するものだった。僕が昨日感じたことに重なる部分が多く山名さんのFBにその旨記した。私の上記コメントを補強するものなのでこちらにもコピペしたい。 山名さん、昨日工学部の修士設計発表会にわたしの最後の学生が二人発表するということで行ってきました。そのタイミングだったので山名さんのコメントに感じるものがあり一言コメントしたいと思います。(半ば私の思考のまとめのようなところもあり恐縮です)。 まずは山名さんが工学部にいたときによく「君は何をプロジェクトしているのか」と学生に問うていたことを思い出しました。そして昨日そのことを感じました。彼らのプレゼンの大半のエネルギーは模型とcgに費やされており、一体あなたはなぜこの課題を取り上げているのかという部分の説明がとても貧弱です。新しい生き方とか多拠点居住とかエコロジーとか昨今皆が問題とする問題にパクッと食いつきその課題の問題性を探ることをしていないように感じました。つまりみんながプロジェクトしていることをプロジェクトしているとしか見えないわけです。 私ごとですがチリカトリカ大学の修士設計を1年かけて見ています。昨年は現地で今年はズームで指導します。わたしのスタジオには新しい生き方をプロジェクトしている人がおりますが。彼女は新しい生き方が必要な経済的理由から議論します。そしてコレクティブハウジング、シェアハウスの概念規定をして、家族形態の歴史、プライバシー概念の変遷を調べた上で新しい共同生活の可能性を探るというところにきます。ここまでまでするのに一学期かけるわけです。 そうしたリサーチによって彼ら彼女らのプロジェクトはチリの歴史の上に編み込まれるのだと思います。こうした考察の上にプロジェクトを作り上げるのは大学の伝統なのだろうと思います。というのも彼ら彼女らは全員自分のプロジェクトを立ち上げる時に図書館に行って既往修士プロジェクトを検索しそれをスタジオの時間に持ってきます。その数は結構膨大です。そしてそれとどこが違うのか自分の視点のオリジナリティはどこにあるのかを説明します。過去プロジェクトは日本においてもあるはずですが、それを探すことをしませんよね。そしてわたしも含めてそういうことは誰々がやっているよと自分の研究室の過去プロジェクトについては教えるものの、大学全体として過去プロジェクトを調べるという習慣はないように思います。これは大いに反省してます。 またこれは山名さんは強く感じていると思いますが。チリの学生はプロジェクトをはじめるときに自分の論考のビブリオグラフィを作り始めます。日本で設計においてそんなことをする学生はまずいないのではと思います。例えばキッチンのあり方を変えて様々な住み方に対応する住居を作りたいという学生がいました。そこでゼンパーを参考にしたらというと次の週に図書館からゼンパーの英訳を持ってきます。スペイン語はイタリア語と似ているから彼はアウレリやロッシの原書を普通に持参してきて論理を参考にします。つまり日本人より西洋で育った概念に対する歴史や論考へのアクセシビティティが遥かに高いわけです。そのあたりは東洋人のハンディキャップだなと感じます。とはいえ西洋概念だって多くの日本の論者が既に輸入しているのだからせめて日本語の本でいいからビブリオグラフィを作るべきでしょう。 さて彼の地のアップサイドを書き連ねましたが、実は向こうにいると隣の庭はよく見えるもので、チリの模型は貧弱で日本のそれがよくみえます。わたしの知る限り、日本の学生の模型は世界一素晴らしく、それによって得られていることは多々あります。チリの学生に座学で小テストをしてますが、フィジカルモデルの必要性と可能性について書かせると皆異口同音にその重要性を語ります。でもそう簡単に実践しません。もはや大学の伝統になってしまっており、彼らはまず3Dモデルを作ってしまいます。そのほうが安く早くできるからです。僕がそのことをほかの先生に指摘すると是非日本流を教えてくれと言いますがそう簡単に彼らの伝統を破壊できません。 さて山名さんのいう推し活的、イメージや世界観に流される講評会は講評会のやり方にも関係していると思います。またカトリカのやり方で恐縮ですが、彼の地のスタジオは1スタジオの学生数は7−8人そこで先生が2人指導します。そして学期の途中と最後に試験をします。その時スタジオ外の教授が二人試験官として割り当てられ主にその二人が講評します。学生発表2−30分、二人の先生の講評は3−40分弾丸のように話します。それはそれはすごい迫力です。一人の学生が修了するまでにこのテストを5回受けることになります。毎回採点されその点を全員の前で公表します。もちろんその点をつけた理由も丁寧に説明します。そして途中で落第も発生します。僕も年末一人落第にしました。その後その学生と40分議論しました。これは学生の評価でもありますが先生も同時に評価されているようにも感じます。日本の私立大学でこんなことをするなら先生の数を増やすか学生の数を減らすか講評会を4日くらいやるなどしないと実現しませんね。かなり難しいかもしれません。しかしたくさんの先生を呼んで短時間のディスカッションをするとどうしても流されがちです。もちろんたくさん呼んでも一人に1時間くらいかければ議論は深まるのかもしれません。したがって講評会のシステムを変えることも考えないといけないように感じます。 総じて私は山名さんのコメントに同感ですが、日本の修士設計のアップサイドは確実にありそのことを無くさないようにしないといけないと感じます。その上で学生にはプロジェクトの当事者意識を持って論理を紡ぐ訓練を先生がしないといけないと思います。それが結果になるまでにはおそらく6年かかります。山名さんが来年度に入ってくる1年生から教えてください。その教育が彼らをして新しい理工の伝統を生み出すことになるのではないでしょうか。楽しみにしてます。